佐賀県の吉野ヶ里遺跡と卑弥呼の関係は?ここが邪馬台国?

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吉野ヶ里遺跡が発見されたのは1986年と最近の話です。この50ヘクタールの土地から弥生時代の多くの土器や木器などが出土した他、何と言っても集落の防御に関連する遺構があることで有名です。

竪穴式住居や高床住居など教科書で習った通りの暮らしを見ることができる吉野ヶ里遺跡は面白い体験施設です。

発掘当初連日、多くの学者や見学者が押し寄せました。それは「邪馬台国」「卑弥呼」に関係するのではないかと報道されたからです。

果たして、ここは卑弥呼にどのようにつながっていると考えられているのでしょうか?探っていきたいと思います。

卑弥呼のイラスト

吉野ヶ里遺跡は卑弥呼が住んでいた邪馬台国なのか?

遺跡が発掘された頃は「邪馬台国」に関する遺跡ではないかと、九州王朝説が大きく報道で取り上げられました。やっと見つかったか!これが邪馬台国なのかと思ったのですが、現在の有力な見解は

「九州北部にあった複数の「クニ」の1つに過ぎない。」

ということです。邪馬台国のクニの1つであるというだけでも魅力があります。邪馬台国についてはまだ謎がたくさんあるので、その1つであるものが見つかっただけでも素晴らしいです。

吉野ヶ里遺跡で卑弥呼が住んでいた邪馬台国説が出た経緯!

発掘されて以来、歴史ファンをはじめ地元の人など多くが歴史的出土品にワクワクしたものです。そこに「吉野ヶ里遺跡が邪馬台国時代のクニ」と新聞報道されました。

発掘調査出土した品によりその見解がが強いとされ、報道されたものだから一気に日本中が湧きました。しかも「いや!邪馬台国はそこではない!こっちだ!あっちだ!」と邪馬台国論争の最中なので、その真意を確認するべく話題になりました。

ただ、大げさな報道だったといのではなく報道に至るには理由がありました。

吉野ヶ里遺跡では弥生時代の遺構、遺物が見つかっているのです。それ以前の縄文時代のものも含まれており、この地から弥生時代の生活が見えて来ることから卑弥呼邪馬台国有力説が出来上がりました。

吉野ヶ里遺跡といえばこの歴史的住居と3つの前方後方墳

竪穴式住居、高床式住居や物見やぐらが大変有名です。

現在ではこれらは、復元された98棟が広い敷地に点々とあり、歩いて中に入ってみることが出来ます。教科書で見た弥生時代の住居に実際に入ることが出来ます。感動的です。歴代の王が埋葬された大きな棺の現物が展示されています。

これに埋葬されたのか…。と不思議な気分になります。北墳丘墓は見ておきたいです。丘といっても墓の為に人工的に造られた丘です。違う種類の土を何層にも積み重ねて、丈夫な構造になっています。当時から土の使い分けをしていたのですね。

このあたりは弥生時代を過ぎて使われなくなっても「特別な先祖の霊が眠る場所」として大切にされていたことから現代の発見に無事に至ったのでしょう。

※前方後円墳と前方後方墳の違いについては現在でも諸説ありますが、吉野ヶ里遺跡は前方後方墳とうたっています。

日本最大級の環壕集落跡の吉野ヶ里の出土品はどんな物?

多数出土された物には弥生時代にクニを豊かにする生活品がたくさんあります。

祭祀用土器、大型の甕棺(かめかんぼ=ひつぎのようなもの)、銅鐸、石包丁、紡錘(ぼうすい=糸つむぎのようなもの)、墓からはガラス製の管玉などの装飾品も出土されました。

今のところ、銅鐸が出土されたのは九州では初とされており、いかに歴史的出土品が多いかがわかります。他に、クニを守るためには戦いもあったのでしょう。こんなものも出土されました。

発掘された人骨の研究から、けがをした人であったり、矢じりが刺さったままであったり、無残な姿のものなどもあり、クニを守る為にすさまじい戦いをしていた様子がうかがえます。

まとめ

全国に数ある邪馬台国説の1つである吉野ヶ里遺跡はこんなにも弥生時代の暮らしが見つかれば、当然卑弥呼が住んでいた可能性も否定できません。

現在では纒向遺跡(まきむくいせき)の発掘によって畿内説のほうが有力になっているようですが、まだ解明されていないこの問題、今後はどうなるのでしょうか?この論争に決着が付く日は来るのでしょうか?

邪馬台国ではないとしても、弥生時代の歴史が詰まった吉野ヶ里遺跡は、社会科見学なんてもんではなく、この暮らしぶりが現代の文明につながっているのだなあと神秘的な感動が伝わるところです。

棺の数も多数ある為(無造作的にごく自然に並べられている感じで、実物だなんて思えない様子本物です!)ゆっくり1つ1つの説明を見て回ると良いです。ごゆっくり弥生時代に浸ってください!

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