学問の神様として全国から年間1,000万人の参拝客が訪れる福岡県の太宰府天満宮です。学問の神様と言われる由来には平安時代を生きた菅原道真(すがわらのみちざね)が大きなカギを握っています。太宰府天満宮といえば菅原道真に由来があることまでは良く知られています。
菅原道真が、いかに才が豊かだったのか分かると、やはり太宰府天満宮に行ってみようかなという気持ちになるでしょう。ということで、今回は
- そもそも菅原道真とはどんな人だったのか?
- なぜ左遷されたのか?
- 太宰府で崇敬されるようになった理由は?
について探っていきます。
太宰府天満宮は菅原道真の左遷とどう関係がある?
菅原道真は大宰府政庁で生涯を終えました。太宰府政庁跡という観光地は、現在も残っています。芝生などが広がり、マラソンをしている姿を見ることができるようなのびのびとした地です。
<亡骸を運ぶ最中の出来事>
牛車にのせて菅原道真の亡骸を運んでいたのですが、牛が伏して動かなくなってしまいました。菅原道真の御心によるものであろうといわれ、その地で埋葬することになり、御墓所に廟(びょう=死者を祀る施設)を建てました。
<都では不吉なことが続く>
菅原道真の死後、都では病気や気象に不吉な出来事が続いた為、道真の祟りと噂されるようになりました。祟りから逃れる為に太宰府に使いが出向き、菅原道真の墓所の上に社殿を建てました。それが現在の太宰府天満宮です。
菅原道真は妬まれて左遷されるほどに優秀だった
それでは、菅原道真の波乱万丈の人生を見て行きましょう。
<肩書>
貴族でありながら学者、漢詩人、政治家としても有名になり、著書には「菅家文章」や「菅家後集」などで詩を残しています。
<幼少期~青年期の才能>
詩歌の才能は幼い頃からきわ立っていて、若くして文章博士に命じられました。父親も私塾を開くような優秀な人で、父親の死後はその私塾を継ぎ、朝廷でも学問を教える中心的な人物になりました。ちなみに弓矢は百発百中だったと言われており、多才な男性であったようです。
<中年期>
50歳頃には遣唐大使になります。しかし、唐の衰退と既に日本文化も発達してきたこともあり菅原道真の時を最後に遣唐使が廃止となりました。
その後、太政官のトップクラスになり政治の中でも順調に昇進していきました。頭脳も腕も政権も握ることができる素晴らしい人間であるがゆえに晩年には人間関係を崩していきます。
菅原道真が太宰府に左遷された無実の罪
<主張する政権の考え>
菅原道真は中央集権を進めたいという考えでした。しかし、朝廷では集中化ではなく地方集権を、そして激変ではなく生活維持を支持する者が多く、菅原道真と対立するようになって行きました。
<まさかの醍醐天皇を廃立?そして罪に>
左遷に至る経緯は諸説あり、その一説ではありますが菅原道真は醍醐天皇の時に優秀な頭脳が評価され更なる昇進も手に入れた為、周囲からは政権に対する反発に加え、昇進ぶりを妬む人が多くなりました。
それなのに、待遇を良くしてくれた醍醐天皇を廃立して娘婿を皇位にしようとしたことで一気に反感を買い、罪となり京都から太宰府の地に左遷されたといわれています。太宰府では裕福ではない厳しい生活を強いられました。
その状況下にあっても皇室や国家の安泰と自信の身の潔白を祈っていたそうです。そして死後になって菅原道真の無実が証明されます。
「学問の神様」太宰府天満宮は秀才の菅原道真への崇敬が由来
社殿建設後に菅原道真の無実が証明されて神様の位を与えられました。そして「天神さま」と崇められるようになりました。今も尚、天神さまを祀る神社として多くの参拝客が絶えない太宰府天満宮です。
太宰府天満宮は学問の神様以外にも菅原道真に通じる「至誠の神様」でもあります。失意もあったはずなのに、生涯一貫して誠を尽くした清らかな生き方から、そのようになりました。
まとめ
太宰府天満宮が学問の神様と知ってはいても菅原道真の多才さや誠実な心が神様といわれる由来になっていたなんて、波乱万丈だった菅原道真に感謝してもしきれないですね。
受験生が合格祈願に訪れる際は、菅原道真の人生も知っておくと更に感慨深い太宰府の地となることでしょう。
博多駅や福岡空港がある福岡市の中央から南へ電車で特急や急行を使って30分あれば太宰府駅に到着します。そこから始まる名物の梅ケ枝餅などが販売されている参道も楽しめます。福岡県に来られる際には是非お立ち寄りください。
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