日本とロシアには北方領土問題がありますが、交渉はうまく行っているとは言えません。そもそも具体的にどんな問題なのかを詳細に知っている方は、それほどいないかもしれません。
- そもそも北方領土とは?
- なぜ、北方領土問題が起きてしまったのか?
- 北方領土にはどのような歴史的経緯があるのか?
- 戦後、北方領土交渉はどのように進んできたのか?
- 現在は北方領土交渉はどうなっているのか?
このあたりについて、できるだけわかりやすく説明していきたいと思います。
(歯舞群島 出典:Wikipedia)
北方領土とは?
北方領土とは、終戦間近あるいは終戦直後にソ連が日本から占領した北海道の北東洋上に連なる次の4つの島のこといいます。
- 歯舞群島(はぼまいぐんとう)
- 色丹島(しこたんとう)
- 国後島(くなしりとう)
- 択捉島(えとろふとう)
現在でも、これらの島々はロシアが実効支配しております。よく2島先行返還を交渉すべきだと言われますが2島返還の場合、対象は歯舞群島と色丹島で北方領土のおよそ7%の面積となります。地図を見ればこの2島と国後・択捉島の大きさの違いは一目瞭然です。
出典:外務省ホームページ
戦前の北方領土と樺太の歴史
戦前の北方領土の歴史について語っておきます。北方領土と樺太は日本とロシアの間で、いろいろと動きがありました。
江戸時代の1855年に日露和親条約(にちろわしんじょうやく)で、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島は日本の領土、その先の千島列島はロシアの領土だということになりました。
日露和親条約は、日露通好条約(にちろわしんじょうやく)、下田条約(しもだじょうやく)、日魯通好条約(にちろつうこうじょうやく)などとも呼ばれます。
1875年は樺太・千島交換条約が締結されましたが、それまで曖昧だった樺太はロシア領土に、千島列島は日本の領土になりました。
日露戦争後に締結された1905年のポーツマス条約においては、樺太の南半分までが日本の領土となりました。
(出典:Wikipedia)
北方領土問題はなぜ起こった?
かつては北方領土どころか樺太の半分も日本の領土だったということがわかりました。それでは北方領土問題が発生したのはなぜしょうか?
きっかけは、第二次大戦になりますが、内閣府のホームページには、こうあります。
1945年(昭和20年) 8月の第二次世界大戦終了直後、ソ連軍により不法に占拠され、日本人の住めない島々になってしまいました。(内閣府)
日本は1945年の8月15日を終戦の日として、その日を「終戦記念日」と定めております。
ソ連は8月9日に日ソ中立条約に違反して参戦しました。そして、日本が終戦記念日と定めている8月15日の後の8月28日に択捉島に上陸を開始し、9月5日には北方領土と呼ばれる地域を占領しました。
確かに、これをそのまま受け取ると、終戦後にソ連が北方領土を占領したように思われますが、実は国際法上の戦争終結は日本が降伏文書に調印した9月2日となっております。つまり、日本とロシアでは終戦日に食い違いがあるのです。
日本とロシア以外の終戦日の認識は?
この点において、国際社会においてはロシアの主張のほうが有利となっております。終戦日を9月2日とする国にはアメリカやカナダ、フランスがあります。ちなみに中国では9月3日となっております。
国後島、択捉島については9月2日の前に占領が完了しており、歯舞群島についてはその後に占領されております。
また、色丹島についてはウィキペディアによると、9月1日までに占領されていたと記載されておりますが、これは降伏文書に調印した後に占領されたという説もあります。
ヤルタ会談での密約
実は1945年2月に行なわれたヤルタ会談において、アメリカ、イギリス、ソ連の間で、日ソ中立条約を破棄してソ連が参戦する見返りに
といった密約が結ばれていました。
戦後における北方領土の扱いは?
戦後は北方領土の扱いはどのようになっていったのでしょうか?
戦後の日露交渉の流れについて見ていきたいと思います。
サンフランシスコ講和条約
1951年にサンフランシスコ講和条約が締結されました。
これはアメリカを始めとする連合国と日本の戦争状態を終結させる平和条約です。この条約において日本は南樺太とともに千島列島の主権を放棄しております。これを普通に受け止めると、現在は北方領土と呼ばれる地域も放棄してしまったことになりますね。
ところが当事国のひとつであるソ連は条約のための会議には参加していたものの、サンフランシスコ講和条約に締結しませんでした。
外務省のホームページを見ると、「北方四島は千島列島の中に含れない。」としています。また、次のようにも主張しております。
ソ連は、サンフランシスコ平和条約には署名しておらず、同条約上の権利を主張することはできません。(外務省のホームページ)
日ソ共同宣言
1956年に日ソ共同宣言を締結して日本とソ連は国交を結びますが、北方領土問題は解決せずに平和条約締結には至りませんでした。
この条約は平和条約締結後にソ連が歯舞群島と色丹島を日本に譲渡するという前提で合意がなされました。2018年にプーチン大統領が安倍総理にいきなり、
「われわれは70年にわたって交渉してきた。安倍首相はアプローチを変えよう、と提案した。私の考えはこうだ。(日本とロシアが)平和条約を今ではないが、今年が終わる前に、前提条件を付けずに締結しよう」
などと急に言い出しましたが、これが意味するところは明らかに歯舞群島と色丹島を譲歩しないで平和条約を締結しようということです。
これを実施すれば両島が返還される可能性はほぼなくなり、日本としては当然受け入れることはできない申し出ということになります。
四島一括返還に主張を変更
1956年の日ソ共同宣言において、このまま順調に進んで歯舞群島と色丹島が返還されるようにも見えましたが、その後は状況が変わっていきます。
日本は歯舞群島、色丹島だけでなく、四島一括返還を求めるようになりました。背景にはアメリカの圧力があったとも言われております。
アメリカとソ連は対立するようになり、冷戦となります。そのため、アメリカは日本とソ連が平和条約を締結して仲が良くなることをよく思わなかったということです。
ソ連としては要求を上げられて怒るのは当然で、北方領土交渉は進まなくなりました。
冷戦は後に終結しますが、ずっと四島一括返還を主張してきただけに、二島返還では絶対に許せないという国民も多数おります。その人達は今さら二島返還の交渉を始めようとすると、当然反対の声を上げ始めるでしょう。
四島一括返還ではロシアは交渉のテーブルに付こうとしない。かといって、二島返還だと日本国内でバッシングを浴びてしまう。そのような背景もあって、政治家は北方領土問題を持ち出しにくくなっているようです。
(出典:Wikipedia)
現在の北方領土交渉の状況は?
現在は安倍総理とプーチンの間で北方領土交渉がされているのは、ご存知のとおりです。では、この難しい問題がどのように交渉されているのでしょうか?
二島先行返還
四島一括返還も二島返還も難しいという状況で、どの方針で交渉しているのかというと、それは「二島先行返還」という考え方に基づいていると考えられます。ただし、政府は二島先行返還は今のところ発表していないかったと思います。
この二島先行返還というのは、政治家の鈴木宗男氏らが主張していたもので、歯舞群島、色丹島を先に変換してもらって、国後島・択捉島については継続協議にするといった案です。
2018年に実施された日経新聞の世論調査においては、「2島だけの返還」に賛成は5%だったのにたいし、「2島をまず先に返還すべきだ」は46%でした。
平和条約については、どの段階で締結するのかは政府は、はっきりとしていなかったと思いますが、恐らくは歯舞群島、色丹島の返還が決まった時点ではないかと考えられます。
ただし、二島先行返還でその後、国後島・択捉島が変換されるという可能性は、ほぼないといっていいでしょう。鈴木宗男氏も「最終的に4島全部を返還する事はもう無い、不可能である」と言っております。
交渉の進展が止まる?
北方領土交渉は一時、プーチン大統領の次の発言などから、なんらかの締結がなされるような機運がありました。
「北方領土問題をロ・日双方が受け入れられる形で最終的に解決したいと強く願っている。」(プーチン大統領)
しかし、その後は全く進展が止まっているように見えます。一体何があったのでしょうか?
ロシア側は変換した島に米軍を配置されることを懸念しているというニュースが流れていたが、日米安保条約では、「米軍が日本のどこにでも基地を置くことができる」とされていいます。
ロシア側は交渉前から、このことは知っていたと思いますし、日本から先に経済支援を引き出して、後でこの米軍基地の懸念を伝えて、領土返還は無しする「食い逃げ」を初めから狙っていた可能性もあるでしょう。
プーチン大統領の支持率低下も影響?
ロシア側からいえば、領土の返還を望む国民は恐らくはいないといっても過言ではないでしょう。プーチン大統領の支持率はかつては90%程度ありましたが、それなら、領土を変換して多少支持率が下がっても大した問題ではなかったかも知れません。
しかしその後、年金改革の不満でプーチン大統領の支持率は40%を切るという事態になってしまいました。こうなってしまうと、下手に領土の返還を掲げてしまうと支持率の下落が加速する可能性があります。
北方領土問題が進展しなくなったのは、そのような背景もあるのかも知れません。
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